行事、歴史

江戸の煤払い



大掃除の事です。


12月13日に江戸城内で行われたのが次第に民間に広まり大掃除するようになりました。


行事というのは、宮中行事を将軍家が行い、それを各大名や武家が模倣し


更に武家屋敷に奉公に来た女中たちが家に持ち帰り民間に伝わりました。


今に伝わる行事の殆んどがそうでした。


当時は大掃除は必須の事で、明かりにロウソクや油を使用します。


油は高級なものでは菜種油、庶民が使うのはそれの半値の魚油で


秋刀魚等の油ですから煙はもうもうと出るわ凄い臭いはするわで


行燈などは暗くなり、天井や室内などは煤だらけになり、嫌でも掃除しませんといけません。


大掃除が終わると商家では鯨汁を出し、御馳走を出して労うが終わりには胴上げがある。


これは、大体普段嫌われてる人か、或いは下女が多かったようです。


嫌われてる人は落とされます。


この季節になると煤を払う笹を売る行商人の掛け声を聞こえてきます。


笹というと正月の門松にも使われますが、門松で独特なのは徳川家の門松で竹と松を使います。


これは、昔、武田軍との三方が原の戦いで惨敗したが、その後、武田信玄から


「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」


という書状が届き、意味は、松(徳川家)が滅び、武田家は栄えるという事で


それに反発した家康は、松枯れで武田首無きあしたかな松枯れで武田首無きあしたかな


更に、これ以降、門松に使う竹を削ぐようにし、それ以降、独特の門松となりました。


 「徳川家 門松」の画像検索結果


 


 


 


戦国こぼれ話 1-9



薩摩藩の事を書いてたら面白い資料があったので紹介します。


日本人が何処から来たのか?


素朴な疑問です。


隼人といえば、古来宮廷の営門の警備をしてた。


勿論その勇猛さを買われての事であったでしょう。


今の鹿児島宮崎周辺に住んでいたようです。


最初から、そうではなく恐らくはもっと日本の中心部にいて


段々と南の僻陬の地に行ったのではないかと思われる。


これは、アイヌや熊襲も同様であったに違いない。


 


東大の埴原名誉教授の説によると、7世紀頃の日本の人口の


7から9割は朝鮮半島から渡来してた人が占めていたという。


帰化というよりは大挙押し寄せてきて当時の日本の中心である


飛鳥の地に住み始め、それが数を増すと同時に、日本古来の


住民である隼人やアイヌなどは段々と追いやられるようになり


北と南とに住み始めたという。


 


江戸時代の詩人である頼山陽も薩摩を訪問して、


その印象を詩で残している


[衣は骭に至り袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り
馬触るれば馬を切る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶属えんせずんば
好し宝刀を以って渠が頭に加えん
]


日本人は2種類の民族に分かれ東北アジア系の弥生系と


東南アジア系の縄文系とに分かれるという。


縄文とは、2万年ころ前に来て定着した人のことで、まだ、


日本と大陸が陸続きであり、陸を辿ってきたアイヌ系や


沖縄系であるという。


その頃は、日本全土に広がり殆どが縄文系であり、それが


変わってきたのが2千年前の頃で朝鮮半島から東北アジア系が


海を渡って来て文化を伝えて弥生文化が始まった。


 


 今の日本の分布というと、西日本に東北アジア系が多く、


北海道沖縄には東南アジア系、関東は中間地帯のようで


どちらとも言えない。


 


東北アジア系とは、気候を関係してるのか体毛は薄く、


目も細く一重瞼で、寒さから体温が奪われないように


鼻や耳が小さい。


顔は面長で頬骨が出ている。頭骨に特徴がある。


西日本から北九州に多い。


 


一方、縄文系は眉が濃く目は二重顎が張り顔が四角っぽい。


 


何故、北海道、沖縄だけが色濃く顔立ちなどに特徴が


残ってるかというと海があって隔てていたからでした。


柴犬


Shiba Inu.jpg


この流れは犬やネズミにも伝わってる。


両方ともに人に付いて来てるからであり、北海道犬や沖縄犬は


東南アジア系で、柴犬や甲斐犬などの本州の犬は東北アジア


の犬である。


琉球犬


「琉球犬」の画像検索結果


渡来人は又多くの神社などを建立した。


渡来人であるが征夷大将軍として蝦夷を征伐した坂上田村麻呂


渡来人の漢氏である。


彼は清水寺を作り、同じく漢氏は、お稲荷さんで有名な伏見稲荷、


秦氏は、宇佐八幡といった日本の代表的な神社を作った。


漢氏・秦氏は古代日本の最大氏族であった。


奈良だけではなく、その頃は僻地であった今の埼玉にもある。


 


そのころに建立されたものに今の埼玉にある高麗神社も


高句麗から渡来した人達によって建立され祭神も


高麗王若光(こまきしじゃっこう)高句麗の神である。


 


ここは出世明神としても有名で過去6人の首相を出している。


Hidaka Saitama Koma Shrine Shinmon 1.JPG


以前、騎馬民族か農耕民族かという議論が盛んであったような


記憶があるが結局どちらであったのでしょう。


東北アジア系というと騎馬の巧みな蒙古民族を思い浮かばるし


東南アジア系といえば、肥沃なメコン川を思い浮かべる。


どうも騎馬ではないような感じを受けますね。







戦国こぼれ話 1-4




家光とは不仲だったが、逆に秀忠夫妻は、夫婦仲が良かった?ともいいます。


もしかしたら抑えられたのかもしれませんが、


秀忠は、お江の方が亡くなった時、棺の中に香木を大量に入れ、


火葬した時、その香りが遠方にも漂ったというくらいふんだんに使ったと思われます。


お江は、江戸時代初めて火葬をした女性です。


香木は、家康が大好きでして、白檀や伽羅などを東南アジアから取り寄せていたといいます。


日本で一番香木を収集した方であったでしょう。


 





大変嫉妬深く、秀忠が他の女性に手を出すことを厳禁した。


有名なのは中将様一世一代の秀忠の浮気です


後の保科正之(会津藩祖)を誕生させますが、


それ以前にも侍女の懐妊はあったそうですが、


それを素早く察知したお江の方が奥女中を呼び寄せて


火箸で刺殺したとも、城から追放したともいわれる。


戦国の余韻が濃いですから、珍しい事ではないでしょう。


勇猛で鳴る福島正則でさえ奥方に浮気がばれて、大薙刀を持った奥方に追いまわされ逃げたほどです。


秀忠は、後の保科正之を女中が懐妊したと判ると、


秀忠は前例に懲りて、女中を直ぐ町屋に避難させて安全を図った。


女中は、町屋で正之を出産したといわれます。


当然、証拠となる守り刀などは渡している。


その時、女中らを保護したのが武田信玄の娘・松姫です。


家康は信玄を敬愛することは甚だしく、武田滅亡の時には


信長に請い武田家旧臣を自分の家臣にし、


武田家旧領の運営を任せ非常にうまく行きました。


更に有名なのは軍法も取り入れ、武田家から戦に物馴れた戦士を多く雇い、


井伊家を赤備えとし精鋭の先鋒部隊とさせ


戦の時は、外様筆頭の藤堂家と同じ先鋒とした。


皮肉なことに、幕末、幕府軍が官軍と鳥羽伏見で戦った際、


恒例により先鋒として出陣した両家が揃って裏切ったのは、


何とも皮肉な結末でした。


藪入り


今は死語になりましたが、江戸時代は、商家に勤める奉公人が、


1月と7月の16日の2日だけ御休みが頂けたのです。


1月は15日が小正月で7月は盆であったからです。


その休みの事を「藪入り」と言いました。


この事から嬉しい事が重なると「盆と正月が一緒に来たようだ」という言葉が出来たとも言います。


現代では、週休2日制などとありますが、当時は休日が無く、藪入りの日を心待ちにしてました。


奉公先でも新しい御仕着せを与え、お小遣いを渡し、11歳の頃に奉公に出て


3年経過すると初の休日・藪入りを貰えるのですから、里帰りをしようとする子供と


心配してずっと待ってる故郷の親は、互いにこの日を待ちかねていて、


飛ぶように帰って行ったといいます。


そして暫くぶりに見るわが子の背も伸びて成長した姿を見て親は驚き、又、安心したのです。


落語の「藪入り」はその姿をよく伝えています。


 


太宗寺閻魔大王像



尚、この日は何故か地獄の閻魔大王も休日で、家に帰れなかった人たちは


各地の閻魔堂に御参りし、後は芝居見物したり美味いものを食べたといいます。


 


 


土用の日 2




photo curtesy of Atsushi Toda 2004

(茗渓)お茶の水渓谷、渓とは、お茶の事。


絵では、先には上水道の水を通す樋が掛かり


更に先には、水道橋があります。


お茶の水の水は初期の頃は大変上質で、大奥で茶にも使われたと云いますが


段々と汚れて行ったといいます。


鰻屋の森山は、右岸上にあります


番付にも乗ってる有名な鰻屋がありました。




 鰻は鰻丼なら200文くらいでしたが、蒲焼となると500文くらいとなり


当時、腕の良い職人の日当が500文でしたから、


庶民には手が届かない食べ物でした。


幕末に有能な官僚であった小栗上野介。


勘定奉行などの役職を歴任し勝海舟との確執がありました。


小栗家は、年に3回くらいは家族で鰻を食べに行ってたようです。


 給与支払日に当たる御切米支給日には、どの家も御馳走を食べたようです。


支給された分のコメから自家で食べる分の米を除いた分の米を


札差から現金で受け取るのです。


米の値段は、江戸城内に貼りだされ、100俵辺り幾らという値段で出されるので、


それに基づいて米価は決まるのです。


相場として100俵で40両くらいが普通でした。


 


鰻は当時は天然物だけしか無いですから、当然季節は限られます。


 夫婦で出かけるというのは当時では大変珍しい事であり


愛妻家で仲が良かったのでしょうね。


 


小栗家の 鰻屋での会計は金2朱でした。


 金2朱は、金1両の8分の1ですから、今の金で言うと


1,2万円でしょう。


値段からみると他の物も食べているでしょう。


 ファイル:Tokyo Chikuyotei Unadon01s2100.jpg


ただ、当時の鰻丼に乗ってる鰻の大きさと数は現代と比較にならない。


この当時の鰻は、皿ごとに売られたらしい。


大きな鰻は1皿、中くらいのは2,3串、


小さいものだと4,5串で売られた。


うな丼は、その半値で提供されたが、驚くのは


そのボリュームです。


 


鰻丼は、ご飯・蒲焼・ご飯・蒲焼の2段重ねであり、


1切れが10センチくらいの大きさで


12切れ入っていたという。


これを食べたら間違いなくお腹一杯であったでしょう


今のようにお上品に?お義理で仕方なく


ご飯の上にちょこっと乗ってるものではなかった。



 


土用の日 1


土用と云えば「ウナギ」。


精を付けるには、俗に「う」の字が付くものを食べろと云われました。


 土用は1年に4回ありますが、現代でいえば7月が知られてます。


しかし、江戸時代は、旧暦なので6月1日が土用の日でした。


この日は、富士山の山開きの日でもあった。


富士山信仰が盛んであった江戸では、講を組んで金を積み立てて


元気な方は富士山に行き、女性や体の弱い方は


江戸府内に多く作られた人口山を富士塚と呼んでお参りに行ったものです。


 都内でできる富士登山!? 東京に残る富士山信仰の名残「富士塚」10選の1枚目の画像


又、土用の入りには湯屋では桃葉湯をして客を迎えました。


客は、通常は湯銭が6文ですが、この日は倍の12文をおひねりのようにして


番台に置いてある三宝の上にのせたのです。


これは、正月の初湯、5月の菖蒲湯、冬の柚子湯と同じでした。


 


鰻は江戸前という言葉を初めて使ったといいいます。


江戸前の鰻といえば深川の産が大きさは中なれど美味なりとされ。


深川より上流で取れた鰻は大きいので好まれなかったようです。


ちなみに江戸前とは、隅田川河口を中心として品川と深川を結ぶ線の内側の海の事で


そこで取れた魚は、江戸前と区別され値段も高かったようです。


鰻は古来から強精薬として知られ「万葉集」でも大伴家持が歌に詠ってます


石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ とり食せ」


鰻を食べて元気をつけなさいという励ましの歌です。


しかし、初期の頃の鰻の調理法と云うのは、単にぶつ切りにして焼いただけですから


油濃くて肉体労働者向けで、味噌や酢で調味された味は


とても美味しいとはいえるものでは無かったようです。


実際に、作って食べた方も同じ感想でした


これが江戸時代、後に大御所の世と明治になって懐かしがられ


江戸文化の爛熟期を迎えた化政年間の頃になると


濃口醤油の登場などで調理法が完成され、


非常に美味しいものとなり人気を呼びます。


売り上げ不振に悩む鰻屋に依頼され有名な広告文「本日丑の日召しませ」の看板を出させ


売上増加に貢献した平賀源内のアイデアもありました。


油っこい鰻を食べるために割り箸も考案され、歌舞伎を見ながら温かい


鰻と飯を一緒に食う事が出来る鰻丼も誕生しました。


江戸は飯の上にたれをかけるが、上方では、飯の間に蒲焼を挟む


それを飯蒸(ままむし)と呼び、それが「マムシ」になったという。


七夕 2


七夕の時の食べ物といえば「そうめん」です。

江戸城でもこの日は素麺が出され将軍や御台所も賞味したのです。


中国から伝わってきた頃は、名も「麦縄」と呼ばれたように


縄のように太い麺であったが次第に細くなり今のような姿になった。


織姫が機を織り糸を細く長く作りますが、それと同じように細く長い素麺を


食べると織物や書道が上手くなると云われ女性は食べました。


初期の頃の食べ方というと、味噌から出る溜りにネギや山椒、胡麻、辛子などを


入れた汁に入れて食べたようで、見るからに辛そうです。


その後、濃口醤油が登場すると、今のような味と形になり生姜を入れて食べた。


ただ、文化年間の蜀山人の狂歌にあるように、素麺は芥子であったようです。


刺鯖は蓼で食べた。


但し、変わらなかったのは素麺の長さでどこまでも長い長さのもので


一端食べ始めると終わるまでが大変でした。


現代なら20センチくらいでカットされているので心配無いが、ただ、昔の伝統を


守ってるいる店が富山県にもあり、その商品の注意書きには「2つに折って食べて下さい。」


そのままで食べるのは勇気が要ります。


 


七夕には、江戸城でも将軍を始め御台も素麺を食しました。


室町時代には、武将間の贈答にも使われ。織田信長も天皇に


素麺を献上した記録があります。


献上に遣われた品では真桑瓜もあり、同じように信長が天皇に


1個献上してます。


真桑瓜は現代では見ることはできませんが、当時は、果物を


代表するものであり高級品で水菓子と呼ばれました。


 もう一つ七夕には関係有りませんが、夏の飲みもとしては熱い甘酒があります。


暑い時には熱い物の鉄則がありますが、甘酒は夏バテを防ぐ飲み物としてでした。


但し、こちらは米飯と麹をアルコールが出る手前で完成なので、


ノンアルコールであり、しかもビタミンが豊かであり夏の栄養補給にピッタリでした。


元々、冬に飲む飲み物で、飲むときに生姜を入れたものですが、


これは今も風邪予防に使われてます。


夏に飲む甘酒には磨り胡麻を入れて飲んだそうです。


 夏の甘酒というと俳句の季語になってますが、実際に、


夏に飲まれるようになったのは江戸時代の後期であったそうです。


それまでは、冬の寒い時に飲むものがいつの間にか


夏にも磨り胡麻を入れて飲むようになったようです。


 


 


七夕 1



江戸時代、7月7日七夕は、幕府の定めた5節句の一つであり大いに祝われました。


七夕が近くなると市中には笹竹売りが回り始め


家々の屋根の上には、七夕の詩歌を書いた短冊、色紙で


切った網や吹き流しなどをつけた青竹が立ち、空を覆うばかりであったという。


 青竹というのが重要で今も地鎮祭の時、竹で以て囲いを作り結界とします。


神聖なる空間なのです。


但し、竹なら何でもよいと云うのではなく「孟宗竹」は、


中国からの渡来なので出来れば日本古来の竹が良いそうです。


仏教渡来よりも古くからあるので外来はダメという事なのでしょうか?


7日夕方には飾りは取り払われ川に流された。


又、この日は学問の神様である菅原道真を祭る北野神宮の


神事である「硯洗い」があり、書道の上達を図る子供達によって行われた。


  七夕は技巧や芸能の上達を願った「乞巧奠」といわれる宮中行事から来たものでした。


宮中では、詩歌を書くのに、 芋の葉の露で墨をすり、梶の葉に書きつけていました。


「乞巧(きっこう)」は巧みを乞う、「奠(でん)」には祀る(神をあがめる)という意味があります。


糸や針の仕事を司るとされていた「織女星(織姫星)」が輝く「七夕」の夜に、


宮中の女性達が御供え物をして、機織やお裁縫が上手くなる事を祈る女性の祭りとなり、


それから暫くして「星伝説」の主役になった二人に因んで、


男女の良縁を祈る意味も加わり七夕としてなったのです。


夏越の大祓い



本日6月30日は、夏越の大祓いの神事です。


別名・茅の輪のくぐり」といい、日常知らない間に身に付いた穢れや汚れなどが


輪を潜り抜けるときれいな物になるという大変有難い神事で、


埼玉では大宮の氷川神社が有名です。


似たものでは亀戸天満宮の鷽替え(うそがえ)があります。


こちらは1年でついた嘘が消えてなくるというものですが


どちらも神頼みである事が微笑ましい事ですね。


こうした伝統行事が地域で続いている事は何とも嬉しい事です。


 


真田丸 3-1





絵は、秀吉の最後の花見になった醍醐の花見です


戦国時代の食と着物についてです。


余談ですが、大河ドラマでも女性が座るときは正座ですが、


戦国の頃は、片足を上げるか、或いは、胡坐が普通であったようです。


そのため、着物の身幅や着丈はかなりゆったりとしたもので


正座が一般化するのは。江戸時代からでした。


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絵は,将軍の正月参賀です。


座る場所も、座る畳まで決まっています。


18歳主人公「おあむ」の衣食についてですが、年頃の悩みが出てます。


彼女・おあむの楽しみというのは、兄が、時に山に鉄砲打ちに


猟に行く時に家で弁当として混ぜ飯を作ります。


その時余った混ぜ飯を分けてもらい食べるのがとても美味しく


非常に楽しみで、いつ兄が猟に行くのか楽しみにしてたそうです。


いつも朝夕は雑炊ですから無理もない事です。


何しろモノのない時代ですから、着るものも1枚の着物を何年も着ます。


おあむも、13歳のときに単衣の帷子(かたびら)を作ってもらいました。


ところが体は大きくなるので、次第に短くなり、


ちょうど膝くらいの長さであったので恥ずかしくてしょうがなく


いつも新しいものを欲しがったとあります。


 


この当時の布地というと麻が多いです。


木綿は江戸時代になってからであり、安くて暖かいので歓迎されました。


浴衣などは爆発的に流行しました。


麻というのは、典型的な夏の布地です。


おあむのは単衣ですから裏地がなく、本来は帷子は夏の着物です。


元々は女性が風呂に入る時の肌着「湯帷子」が元でした。


従って冬など重ね着をしたことと思われます。


江戸時代は1枚の着物に秋は裏をつけ袷にしたり、


或いは、冬は綿を入れ夏は裏を取って単衣にしたりと


1枚の着物を大事に1年中着たのです。


四月一日と書いて、「わたぬき」と呼びますが、


春を迎えて綿を抜くことから言われた。


同日を衣替えの日として年の行事の中に入っていました。


生活が四季に密接に密着していて、


季節に合わせて暮らしていたのです。


 


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