行事、歴史

真田丸 3-1





絵は、秀吉の最後の花見になった醍醐の花見です


戦国時代の食と着物についてです。


余談ですが、大河ドラマでも女性が座るときは正座ですが、


戦国の頃は、片足を上げるか、或いは、胡坐が普通であったようです。


そのため、着物の身幅や着丈はかなりゆったりとしたもので


正座が一般化するのは。江戸時代からでした。


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絵は,将軍の正月参賀です。


座る場所も、座る畳まで決まっています。


18歳主人公「おあむ」の衣食についてですが、年頃の悩みが出てます。


彼女・おあむの楽しみというのは、兄が、時に山に鉄砲打ちに


猟に行く時に家で弁当として混ぜ飯を作ります。


その時余った混ぜ飯を分けてもらい食べるのがとても美味しく


非常に楽しみで、いつ兄が猟に行くのか楽しみにしてたそうです。


いつも朝夕は雑炊ですから無理もない事です。


何しろモノのない時代ですから、着るものも1枚の着物を何年も着ます。


おあむも、13歳のときに単衣の帷子(かたびら)を作ってもらいました。


ところが体は大きくなるので、次第に短くなり、


ちょうど膝くらいの長さであったので恥ずかしくてしょうがなく


いつも新しいものを欲しがったとあります。


 


この当時の布地というと麻が多いです。


木綿は江戸時代になってからであり、安くて暖かいので歓迎されました。


浴衣などは爆発的に流行しました。


麻というのは、典型的な夏の布地です。


おあむのは単衣ですから裏地がなく、本来は帷子は夏の着物です。


元々は女性が風呂に入る時の肌着「湯帷子」が元でした。


従って冬など重ね着をしたことと思われます。


江戸時代は1枚の着物に秋は裏をつけ袷にしたり、


或いは、冬は綿を入れ夏は裏を取って単衣にしたりと


1枚の着物を大事に1年中着たのです。


四月一日と書いて、「わたぬき」と呼びますが、


春を迎えて綿を抜くことから言われた。


同日を衣替えの日として年の行事の中に入っていました。


生活が四季に密接に密着していて、


季節に合わせて暮らしていたのです。


 


真田丸 2




テレビ放映中の真田丸の時代の食について書きます



当時、1日の食事というのは朝夕の2食でした。


それも雑炊であり、3食というのは江戸時代に入ってからです。


米も玄米に近いくらいで米ぬかがたっぷりと付いていたくらいに


搗いたようです。


家康といえば大の麦飯の愛好家で、これは健康に良いという事から


麦飯を食べてもいたようで、家来が、気を利かせて


米の飯を出したりすると機嫌が悪くなり麦飯に変えさせたといいます。


この時代で家康ほど保健について神経を配った武将はいないでしょう。


自分の健康を保持するためにスポーツを大いに行い、一方では、


本の好事家であり1万冊くらいの本を集めさせ文庫を作り、


又、香木の大ファンで当時のシャム(タイ)あたりから輸入した


香木の殆んどを所有したといいます。


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食べなかったけれど米飯の逸話(名将言行録)が家康にはあります。


大坂の陣の前には、関ヶ原の戦いがありました。上の絵です。


この戦いは、日本の戦いでは珍しく長時間にわたる激戦が行われ


やっと東軍の家康方が勝利したが、あまりの長い戦いのため、


将兵は、夕方になると空腹を覚えたが、生憎、大雨が降って


火を付けることもできず困り、中には生米を食べて身体を壊す兵も出た。


すると家康は、触れを出して米を水につけてから


食すようにとさせ食べさせた。


兵たちは、そこまで気を使ってくれるのかと感激したといいます。


 次回は食のおかずについて。


 


 


 


 


真田丸 1


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今、テレビで放映されてる真田丸とは、徳川と豊臣との天下を争う


戦いの場となった大坂の陣で豊臣方についた真田幸村によって


大阪城の出丸として作られた砦のことですが、同時代を生きた女性がいます。


彼女は長寿を全うして四国の土佐で亡くなりましたが、


晩年に過去を回顧し本になり「おあむ物語」として残り、


当時の世俗を知る資料として貴重なものとなってます。


女性の名は「おあむ」石田三成の家来として仕えた山田家の娘として生まれた。


三成の家来ですから、今の滋賀県の琵琶湖のほとりの佐和山に


居住してたと思われます


家は300石取りの侍ですから生活は豊かなほうだと思います。


この当時の食事というのは実に質素なものでした



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これより少し後のことですが、徳川3代将軍家光の頃、江戸城で大名たちが


詰めていて、昼飯時に毛利家の殿様が弁当を開けると、中には


焼いた鮭が入っていて、それを見た大名たちが寄ってきて


これは珍しいものだといい、鮭を分けて食べたという有名な逸話があります。


それほど質素なものでした。


今でこそシャケ弁などと言われてますが、世が世なら大名たちも喜んだのです。


 雛飾り


このたびご縁がありNPO法人スノードロップに入社しました


鈴木紳郎(すずきのぶお)と申します。


趣味は、歴史が好きで特に江戸が大好きです。


江戸の何が好きかというと自然環境です。


古写真を見ると解るように建物が3階建てというのがありませんので


火の見櫓がどこまで行っても見えて、空が限りなく大きいです。


生活はスローライフでゆったりとし人の歩くスピードが全ての基本です。


そうした江戸のあれこれと色々な行事を紹介しながら現代と比較して


頂くのも楽しいものです。


これから随時ブログに色々な行事を書いていきたいと思います。


 早速ですが、3月は陰暦で言うと弥生です。


最初に浮かぶ行事は女の子のお祭り「雛祭りです」


この雛祭りの季節は潮の満ち引きが大きな季節で、


潮干狩りが家族揃っての楽しい行楽となります。


その頃の江戸は、今とは違い高輪や品川、洲崎は


白砂青松がぴったりの白い砂浜が続いてました。


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蛤や浅蜊が取り放題、白い小魚が逃げ遅れて、


足の下で動いているといった状況でした。


雛 祭りは、江戸時代頃から現代の姿になったといわれてます。


もともとは、ひいな遊びといって、貴族の子女の遊びでしたが


江戸の頃になると、災厄を代わりに受けて貰うという意味で


災厄除けの「守り雛」となったのです。


 大身の武家の娘の嫁入り道具の一つとして持参された。


16代徳川家達の元に島津家から嫁入りしたが、


雛祭りの時期になると座敷中に飾ったが、それでも


飾りきれないほどの道具の入った櫃があったといいます。


 


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