行事、歴史

江戸の鞴祭


11月8日は鞴祭


鍛冶屋、鋳物、飾師などは火防や家業の徳に報いる為に、稲荷神を祀る。


未明には、蜜柑播きがあり、子供たちは朝早く起きて蜜柑を拾う。


「まけまけ拾え、鍛冶屋の貧ぼ」と云いながらである。


紀伊國屋文左衛門が嵐をついて蜜柑を乗せた船を


出航させた話は有名ですが、この鞴祭りで使われた蜜柑の為とも


云われるくらい、需要があったそうです。


 


 紀文
メタボンのブログ


 紀州蜜柑は香も良かったが、種が多く、明治以降は温州ミカンに取って替えられた。


歌舞伎 顔見世興行



 
11月に入ってしまいました。早いもので今年も残すところ約60日です。



江戸の11月1日は顔見世興行です。歌舞伎の大事な年中行事です。

11月1日から1年間にかけて芝居を打ちますが、それに出演する俳優たちが顔を揃えるのです。

江戸の女性の好きなものといえば「芝居・芋・・章魚・南京」と言いました。

芋は里芋でしたが後に薩摩芋に、南京とは南瓜の事です。

歌舞伎は女性の憧れで流行もここから多く誕生し、着物の柄もそうでした。


女性は歌舞伎を見るのを最大の喜びとし、


まして地方から江戸に出てきた女性などは必ず歌舞伎を観たものです。


俳優の高倉健のご先祖で宅子さんという方が九州福岡に住んでいて、


宅子さんも半年に亘る旅をし各地を訪れ、特に江戸と大坂では歌舞伎を3日連続で観に行ったものです。


尚、旅を記した旅日記も記し多くの歌を歌ってますが、題名を「東路記」といい、


高倉健さんが自宅にこんなものがあるけど字が難しくて読めないと、


日記を持参したのが本の誕生となりました。


当時の歌舞伎というのは、朝6時ころに開演し夕方に終わります。


女性は、歌舞伎を見るのも楽しみですが、衣装なども見るのも楽しみです。


前夜は殆んど徹夜状態で着物を選び、沢山用意して行きます。


大概が芝居小屋の隣にある芝居茶屋に入り、そこで着替えたり食事をしたりし、


午前中は出演するのは若手の俳優ばかりですから、やはり、午後になってからが真打ちが出てきます


それまで何回も出入りして居るわけです。


勿論、全員の客がそうできるわけではなく裕福な方だけですが、そうでない方は「か・べ・す」といわれ


土間席に陣取りお菓子や弁当や鮓を食べます。


現代では演劇中に喋ったりし食べ物を食べたりしたら顰蹙を買いそうですが


当時は、朝6時から夕方までのロングラン、まして土間席に陣取る方は食べるところが他にはありません、


俳優にとってはかなりうるさい事この上なかったでしょう。


 


弁当といえば歌舞伎で生れたものが幾つかあります。


助六弁当、幕の内弁当、そして鰻丼です。


鰻が美味しいのは誰もが知ってますが、やはり熱いうちに食べるのが尚美味い。


そこで熱いご飯の上に鰻を載せてみると大変暖かくて美味しい!


これなら歌舞伎の幕間にも食べることが出来ます。


幕の内弁当は、超大きなおにぎりが付いてます。


当時の人は1日に1人で5合、女性なら3合のご飯を食べたといいます。


「おにぎり」もそれを考えれば大きな、俗にいう赤んぼの頭くらいの大きさといいますが


それくらいのおにぎりがお弁当です。


ちなみに1日5合という量は、武士が藩などから支給される扶持の中で何人扶持というのがあるが


その1人扶持が1日5合です。


この量は明治時代に創設された軍隊にも導入され軍人も又1日5合となりました。


 


 


 


 


恵比寿祭



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江戸では10月20日は恵比寿講でした。


商家で商売繁盛を願い恵比寿様や大黒様を祭り鯛を供え飾ります。


親類などを招き、又、奉公人らも慰労し御馳走が出ます。


この席上では景気の良い商売の話をするのが普通で何万両といいながら席を盛り上げます。


又、この前日には、恵比寿講に必要なものを売る一夜限りの店が出ました。


「腐れ市」といいました。


当初は神棚や俎板、三宝、そして鯛、大根の浅漬けを売ってましたが、


段々、大根のべったら漬けを売るようになり、あまりに好評であったので


市の名も「べったら市」と呼ぶようになった。


 


 


 


鎌倉街道


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比企丘陵の比企とは鎌倉時代にはこの時代の豪族であったとされ、


一族から源頼朝の乳母となる者が出て頼朝に重用された一族でした。


又、この地には鎌倉を中心とする古道があり鎌倉街道といわれました。


鎌倉街道といえば、鎌倉7口といわれる切通しがあまりにも有名ですが


街道の一つ中道は比企を通る道で、この道を奥州にいる弟である源義経を征伐に


軍を差し向けたが、その本軍がこの鎌倉街道・中道を使ったといわれてます。


鳩山にある見晴しの里・妙光寺には義経の郎党で衣川で義経と一緒に戦ったとされる


熊井太郎の遺品があり義経伝説を今に伝えられ


「御攝勧進帳」別名「芋洗い勧進帳」の題で歌舞伎にも取り上げられています。


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江戸の七草


江戸の正月は8日までを松の内としていた。


正月が終わると6日の夜には、門松や松飾りは取り外します


「7日の風に当てるな」といわれていたからです。


又、町には「なづな売り」が回ってきます。七草のひとつです。


春の七草


1月7日は、人日です。


江戸城では若菜の御祝儀がある。


これも宮中の行事を真似たもので、古来より日本では、


年初めに雪の間から芽を出した若草を摘む風習があり、


これが七草の始まりで、邪気を払うと考えられていた。


「枕草子」にも「6日取り、7日食す」とあります。


 


7日の人日は、幕府の公式行事である5節句の内の一つでした。


人日とは、中国では、正月の1日から8日まで、鶏の日、狗(犬)の日、羊の日、


猪の日、牛の日、馬の日、人の日、穀の日としました。 


7日は人の日にあたるので「人日」としたようです。


そして、7日に7種の菜を羹にして食べると年中息災であると信じられていたのでした。


 日本では、寛平2年(890)に七草粥を食べたのが始まりとされてます。


前の日に、七草を準備します。


「せり、なずな、おぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」


 これら七草を俎板の上で叩くが、それがどの家も一斉に叩くので


町中騒がしいものだったという。


「七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン」


   


 


江戸の節分


 



 節分というと現代では2月に行われたが、四季の季節の分かれ目という事であり、

立春・立夏・立秋・立冬の前日に行われ、現代では立春、江戸では立冬の前日でした。

由来は、他の行事と同様に宮中行事の一つでしたが次第に民間でも行われるようになった。

節分の夜に豆をまく風習は古く文武天皇(697~707)に悪疫が流行し

歳末に大儺(たいな)の式を行って災厄を祓った。

これが例になって毎年12月の最後の日に追儺の式が行われた。

所がいつの間にか一般の大みそかの追儺を節分の夜に行うことになり現代に及んでいる。


江戸では浅草寺が最初に豆まきをし、私大に庶民に広まったのが江戸中期の事だという。

豆はいり豆に限る。

家々の門口には、柊の枝にイワシの頭を刺して魔除けとし、一方では大声で豆を撒く。

「福は内、鬼は外」 しかし、中には違うところもある。


戦国時代、海賊で知られ海の大名で知られた九鬼家では、

「鬼は内、福は外」であり、当主が豆を撒いてる後ろで、

そのたびに家来が「さようでござる」と応え、

座敷では鬼用に正面に座を設け、膳には石の豆が置かれてる。

伝説では、鬼は石の豆をパクパク食べたという。


近い所では、武蔵嵐山の鬼鎮神社は、節分の時には、やはり「鬼は内、福は外」 という。


名の通り鬼を祭った神社からでしょう。


何故、撒くのが豆なのかというとはっきりしない。


「古事記」では、イザナギノミコトガが鬼を退治するのに桃を投げたという。


桃が鬼の嫌いなもので、古代中国では桃には霊力があるとされていたからでしょう。


でも、桃は高価なものだったので安い豆になったのかどうか判らない。

節分の豆まきは、「福は内、鬼は外」ではなく、


大体の寺は「鬼は内」と声を上げるのが普通です。

これは、浅草寺でも新勝寺でも観音様の前には、

鬼が存在しないからだということです。


庶民が聞いた厄払いは、古老の言によると

「あらら目出度いな目出度いな、

目出度いもので払うなら松尽くしにて払いましょう。

一夜明ければ御門に立てたる飾り松、


 上には鶴が舞い遊び,二にはにっこりと庭の松、


 三にさぬきの高砂の尾上の松、


 上には鶴が舞い遊び、下には亀が楽遊ぶ

その上に悪魔外道が走れ出て、さまたげ為さんとする所を

この厄払いがかい掴み西の海へ

サラリ、ヘイおめでとう」


 


 





厄払いというと、歌舞伎の「三人吉三巴白波」の舞台です。


お譲吉三の台詞


 月も朧に白魚の 篝(かがり)もかすむ 春の空

冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと


浮かれ烏(からす)のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で

竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手にいる百両


舞台の袖から「お厄落しましょう。厄落とし、厄落とし~」厄払いの声である。


そこで、吉三がほんに今夜は節分か 

西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 

豆だくさんに一文の 銭と違って金包み 

こいつは春から 縁起がいいわえ


 


 


 


 


 


 


 


江戸の大晦日


江戸の大晦日には、変な鳥が飛びます。


「借金取り」という鳥です。


町に定住しますと買物は多少高くても同じ町内でする。


買物は現金払いではありません。掛売りです。


勿論、ある程度住んで信用を得てからの話ですが、年に2回、6・12月の支払いで、


年末である大晦日の商家は徹夜状態で、売掛金の回収をします。


ところが無い袖は振れないと払えない家も出てくる。


そうした場合は取り立てる方は必死の覚悟で行きます。


「大30日 首でも取ってくる気なり」


迎える方も真剣です。


「大晦日 首でよければ やる気なり」


居留守の家もあり、雪隠に籠ってる家もあり、急病になる家もあり、


虚々実々の駆け引きが除夜の鐘が鳴るまで繰り広げられます。


 


又、大晦日には正月に家を訪れる三河万歳が江戸橋の袂で大夫が相方を探し雇います。


それが風習となっていて、見つかると特訓をして元日から仕事です。


烏帽子に素袍の大夫が大黒頭巾をかぶった才蔵の鼓に合わせて舞ったり祝言を述べます。


三河万歳は、最も古い角付け万歳で家に行き、千年も万年もと祝言を言い


舞を舞って御祝儀を貰うのです。江戸の風物詩でした。


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 少し日日は戻りますが12月28日に江戸城で大掃除が終わると将軍や御台所から


側近の者に「御納戸払い」という事で、品々が下賜されました。


 


 奥女中の大岡ませ子によると


「年中の召し物を下されます。


御年寄りは御紋付も貰います。葵紋の事です。


御年寄・御中臈は二つづつ貰います。


お次・御三の間は一品ですが、反物でいただきます。


御納戸払いは、上様付、御台所付の御中臈までくださいます。


私は、天璋院と御台所のを戴きました。」


 


将軍も同じように下賜した。


こうした場合は、出来るだけ身に着けていたもの愛玩の品々が喜ばれ


垢が付いていようものなら御垢付として名誉とされたのです。


浅草歳の市



現代の羽子板市です。


12月17、18日に行われ、翌日の19日には蓑市が開かれ、蓑や笠を買いに来ました。


江戸時代は、歳の市として知られその中で羽子板を売っていた事によります。


歳の市は浅草寺だけではなく他の寺社でも行われてたが浅草寺のが一番盛んであり


人々は正月に備えての用品はもとより生活用品も買い求めたものです。


その人出のすごさは下の絵を見ると一目瞭然で人混みといっても過言ではありません。


 [浅草金竜山年之市群集]を新しいウィンドウで開きます。


当時の子供たちの遊びはというと、女の子は羽根つき、男の子は凧上げが主です。


江戸の正月というのは、元日などは外を歩いてるのは年始回りの武士と


外で元気よく遊ぶ子供たちでその他の人は寝正月です。


だからとても静かで門松に使った笹の葉が2階の障子に触れてさらさらといった音が


聞こえたほどといいます。


女の子遊びでは手毬もありますが、途中までは今のように地面に毬をつくのではなく


手について上に上げていたようです。


これが江戸中期の木綿が普及すると、毬も木綿で作られるようになり


すると地面についても弾むようになったようです。


江戸の煤払い



大掃除の事です。


12月13日に江戸城内で行われたのが次第に民間に広まり大掃除するようになりました。


行事というのは、宮中行事を将軍家が行い、それを各大名や武家が模倣し


更に武家屋敷に奉公に来た女中たちが家に持ち帰り民間に伝わりました。


今に伝わる行事の殆んどがそうでした。


当時は大掃除は必須の事で、明かりにロウソクや油を使用します。


油は高級なものでは菜種油、庶民が使うのはそれの半値の魚油で


秋刀魚等の油ですから煙はもうもうと出るわ凄い臭いはするわで


行燈などは暗くなり、天井や室内などは煤だらけになり、嫌でも掃除しませんといけません。


大掃除が終わると商家では鯨汁を出し、御馳走を出して労うが終わりには胴上げがある。


これは、大体普段嫌われてる人か、或いは下女が多かったようです。


嫌われてる人は落とされます。


この季節になると煤を払う笹を売る行商人の掛け声を聞こえてきます。


笹というと正月の門松にも使われますが、門松で独特なのは徳川家の門松で竹と松を使います。


これは、昔、武田軍との三方が原の戦いで惨敗したが、その後、武田信玄から


「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」


という書状が届き、意味は、松(徳川家)が滅び、武田家は栄えるという事で


それに反発した家康は、松枯れで武田首無きあしたかな松枯れで武田首無きあしたかな


更に、これ以降、門松に使う竹を削ぐようにし、それ以降、独特の門松となりました。


 「徳川家 門松」の画像検索結果


 


 


 


戦国こぼれ話 1-9



薩摩藩の事を書いてたら面白い資料があったので紹介します。


日本人が何処から来たのか?


素朴な疑問です。


隼人といえば、古来宮廷の営門の警備をしてた。


勿論その勇猛さを買われての事であったでしょう。


今の鹿児島宮崎周辺に住んでいたようです。


最初から、そうではなく恐らくはもっと日本の中心部にいて


段々と南の僻陬の地に行ったのではないかと思われる。


これは、アイヌや熊襲も同様であったに違いない。


 


東大の埴原名誉教授の説によると、7世紀頃の日本の人口の


7から9割は朝鮮半島から渡来してた人が占めていたという。


帰化というよりは大挙押し寄せてきて当時の日本の中心である


飛鳥の地に住み始め、それが数を増すと同時に、日本古来の


住民である隼人やアイヌなどは段々と追いやられるようになり


北と南とに住み始めたという。


 


江戸時代の詩人である頼山陽も薩摩を訪問して、


その印象を詩で残している


[衣は骭に至り袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り
馬触るれば馬を切る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶属えんせずんば
好し宝刀を以って渠が頭に加えん
]


日本人は2種類の民族に分かれ東北アジア系の弥生系と


東南アジア系の縄文系とに分かれるという。


縄文とは、2万年ころ前に来て定着した人のことで、まだ、


日本と大陸が陸続きであり、陸を辿ってきたアイヌ系や


沖縄系であるという。


その頃は、日本全土に広がり殆どが縄文系であり、それが


変わってきたのが2千年前の頃で朝鮮半島から東北アジア系が


海を渡って来て文化を伝えて弥生文化が始まった。


 


 今の日本の分布というと、西日本に東北アジア系が多く、


北海道沖縄には東南アジア系、関東は中間地帯のようで


どちらとも言えない。


 


東北アジア系とは、気候を関係してるのか体毛は薄く、


目も細く一重瞼で、寒さから体温が奪われないように


鼻や耳が小さい。


顔は面長で頬骨が出ている。頭骨に特徴がある。


西日本から北九州に多い。


 


一方、縄文系は眉が濃く目は二重顎が張り顔が四角っぽい。


 


何故、北海道、沖縄だけが色濃く顔立ちなどに特徴が


残ってるかというと海があって隔てていたからでした。


柴犬


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この流れは犬やネズミにも伝わってる。


両方ともに人に付いて来てるからであり、北海道犬や沖縄犬は


東南アジア系で、柴犬や甲斐犬などの本州の犬は東北アジア


の犬である。


琉球犬


「琉球犬」の画像検索結果


渡来人は又多くの神社などを建立した。


渡来人であるが征夷大将軍として蝦夷を征伐した坂上田村麻呂


渡来人の漢氏である。


彼は清水寺を作り、同じく漢氏は、お稲荷さんで有名な伏見稲荷、


秦氏は、宇佐八幡といった日本の代表的な神社を作った。


漢氏・秦氏は古代日本の最大氏族であった。


奈良だけではなく、その頃は僻地であった今の埼玉にもある。


 


そのころに建立されたものに今の埼玉にある高麗神社も


高句麗から渡来した人達によって建立され祭神も


高麗王若光(こまきしじゃっこう)高句麗の神である。


 


ここは出世明神としても有名で過去6人の首相を出している。


Hidaka Saitama Koma Shrine Shinmon 1.JPG


以前、騎馬民族か農耕民族かという議論が盛んであったような


記憶があるが結局どちらであったのでしょう。


東北アジア系というと騎馬の巧みな蒙古民族を思い浮かばるし


東南アジア系といえば、肥沃なメコン川を思い浮かべる。


どうも騎馬ではないような感じを受けますね。







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