江戸の節分


 



 節分というと現代では2月に行われたが、四季の季節の分かれ目という事であり、

立春・立夏・立秋・立冬の前日に行われ、現代では立春、江戸では立冬の前日でした。

由来は、他の行事と同様に宮中行事の一つでしたが次第に民間でも行われるようになった。

節分の夜に豆をまく風習は古く文武天皇(697~707)に悪疫が流行し

歳末に大儺(たいな)の式を行って災厄を祓った。

これが例になって毎年12月の最後の日に追儺の式が行われた。

所がいつの間にか一般の大みそかの追儺を節分の夜に行うことになり現代に及んでいる。


江戸では浅草寺が最初に豆まきをし、私大に庶民に広まったのが江戸中期の事だという。

豆はいり豆に限る。

家々の門口には、柊の枝にイワシの頭を刺して魔除けとし、一方では大声で豆を撒く。

「福は内、鬼は外」 しかし、中には違うところもある。


戦国時代、海賊で知られ海の大名で知られた九鬼家では、

「鬼は内、福は外」であり、当主が豆を撒いてる後ろで、

そのたびに家来が「さようでござる」と応え、

座敷では鬼用に正面に座を設け、膳には石の豆が置かれてる。

伝説では、鬼は石の豆をパクパク食べたという。


近い所では、武蔵嵐山の鬼鎮神社は、節分の時には、やはり「鬼は内、福は外」 という。


名の通り鬼を祭った神社からでしょう。


何故、撒くのが豆なのかというとはっきりしない。


「古事記」では、イザナギノミコトガが鬼を退治するのに桃を投げたという。


桃が鬼の嫌いなもので、古代中国では桃には霊力があるとされていたからでしょう。


でも、桃は高価なものだったので安い豆になったのかどうか判らない。

節分の豆まきは、「福は内、鬼は外」ではなく、


大体の寺は「鬼は内」と声を上げるのが普通です。

これは、浅草寺でも新勝寺でも観音様の前には、

鬼が存在しないからだということです。


庶民が聞いた厄払いは、古老の言によると

「あらら目出度いな目出度いな、

目出度いもので払うなら松尽くしにて払いましょう。

一夜明ければ御門に立てたる飾り松、


 上には鶴が舞い遊び,二にはにっこりと庭の松、


 三にさぬきの高砂の尾上の松、


 上には鶴が舞い遊び、下には亀が楽遊ぶ

その上に悪魔外道が走れ出て、さまたげ為さんとする所を

この厄払いがかい掴み西の海へ

サラリ、ヘイおめでとう」


 


 





厄払いというと、歌舞伎の「三人吉三巴白波」の舞台です。


お譲吉三の台詞


 月も朧に白魚の 篝(かがり)もかすむ 春の空

冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと


浮かれ烏(からす)のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で

竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手にいる百両


舞台の袖から「お厄落しましょう。厄落とし、厄落とし~」厄払いの声である。


そこで、吉三がほんに今夜は節分か 

西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 

豆だくさんに一文の 銭と違って金包み 

こいつは春から 縁起がいいわえ


 


 


 


 


 


 


 


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