戦国こぼれ話 1-7



 


14代将軍家茂などは、大奥は年寄が煩いので中奥に


いることを好んだようだと、御側御用の方も述べています。


中奥とは、将軍が居住する区域です。


特に14代家茂は、夫婦仲が良かったためか大奥に渡る事は無かったという。


ただ和宮の嫁入り以前は、御手つきは旗本の娘が2人いましたと、奥女中が述べてます。


しかし、それほど甘く睦まじかった和宮との新婚生活はわずか2年で終止符を告げた。


家茂が長州征伐に最後の上洛をする前夜、和宮は家茂にお願いをしました。


土産に京の西陣織を頼んだのです。


しかし、そのお土産は、家茂が大阪城で亡くなり、


お土産を人を介して渡された和宮は、西陣織を胸に抱き


一人きりになって30分ほど泣き伏していたといいます。


西陣織は今も増上寺に保管されている。


 


   話は保科正之出生に戻ります。


生まれて後、信州高遠の保科家5万石に養子に入る。


ただ、3代家光は異母弟である正之の存在を知らない。


知っていたのはごく少数の老臣であった。


家光が弟の存在を知ったのは、家光がお忍びで江戸市中に出かけた時、


目黒の成就院(蛸薬師)の住職に初めて弟の存在を知らされた時でした。


驚いた家光は、秀忠の老臣であった土井大炊を呼び寄せて事の真偽を問いただし、


そこで異母弟である正之を知ったようです。


従って、正之は秀忠と親子の対面をしてない訳です。


 その後、家光は正之の才幹を認め次第に引き立てて将軍の弟たる地位に相応しい


会津藩24万石にまで取り立て、将軍の代理としての職務を果たすようにまでなる。


 


そして、家光が亡くなる直前、呼び寄せられ家光の子・家綱の後見を託されるようになる。


これを恩に感じた正之は、徳川家の御恩を忘れないようにと独特の藩風と家訓を残したのです。


 一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、


すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず。

一、兄をうやまい、弟を愛すべし。

一、婦人女子の言 一切聞くべからず。
一、主をおもんじ、法を畏(おそ)るべし。

一、家中は風儀をはげむべし。
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず。
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず。
一、士をえらぶには便辟便侫べんべきべんねいの者をとるべからず。
一、賞罰は、家老のほかこれに参加すべからず、もし位を出ずる者あらばこれを厳格にすべし。
一、近侍の、もの、をして人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず


  評議は私意をはさみ人言を拒(ふさ)ぐべらず。思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし。


  はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず。
一、法を犯すものは、ゆるすべからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり、歳餓(う)えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若し志をうしない遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば


  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし
右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり


ひたすら徳川家及び将軍への忠節を強くする事でした。


この家訓が、幕末になると会津藩の進退を決し、やむをえず京の所司代を受けざるを得ない状況になり。


容保以下の家臣は死を決して京に向かったと云います。


この時の情景を古語で言うと


 「君臣、相擁し、声を放って哭(な)けり」」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録にある。


これがやがては白虎隊の悲劇や戦後の会津藩のあまりに悲惨な状況へと結びつくのです。


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