戦国こぼれ話 1-6
御台所に、京の公家の姫を迎え入れることにより、大奥に京風の文化が定着し、
源氏物語が必需本となり、奥女中の化粧法も白粉をたっぷりと付け、
いわゆる白壁作りといわれる濃い化粧法でした。
固いものを食べない事により、将軍の顔も変わり2代秀忠のような戦国武将風の顎が張り
がっちりとした何でも噛み下すような顔から、うって変わって殿様顔といわれ
顎が細く鼻が高い顔にと変遷していったのです。
典型的な顔としては、14代家茂があてはまるでしょう。
当時の顔としてはあまり見ない顔であったという。
かなりの反っ歯で全ての歯は、甘いものが大好きであったためか虫歯だったという。
和宮に最も家茂に似てると云わせた絵です。
さて、京から摂関家の姫を嫁に迎えた3代家光は、
当時は、戦国の遺風として男色が盛んであり、男色が好きだった
男色が好まれた理由としては、戦国時代は親兄弟といえども油断は出来ず
緊張してた。
謀略を重ねて岡山を自分の領土とした宇喜多家の祖である宇喜多直家の弟は
何時兄に毒殺されるか絶えず怯えていたといいます。
男色の仲は、念友といわれ非常に結束の強いものであったので
安全上、余計身近にいるものを念友としたのでしょう。
あの極度の女好きで知られる家康でさえ有ったといわれるのですから
普通の事であったでしょう。
信長もありました。
無かったのは秀吉だけで女一筋であったようです。
或る時、大名たちが城でくつろいでいた時、その男色の話題になり
超美男の子を秀吉に差し向けたところ、秀吉は一顧だにせず
お前に姉か妹は無いと聞き、それを聞いた諸大名は大笑いしたという。
この頃は、後世のように城内で森林のように静粛にといった雰囲気ではなく
大名などは、つかみ合いの喧嘩をし、城の庭に立ち小便をしてたくらいです。
男色については初期の頃は戦国の遺風が残ってるので
公認されていたようですが、それ以降の時代でもあったようで明治になって編纂された
「旧事諮問碌」の中で、御側御用を務めた方の言として、
壮年の将軍の場合は、御小姓が同衾する場合もありました」とあるので、
そうであったのでしょう。
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