戦国こぼれ話 1-1
日光東照宮・大猷院霊廟(家光)
「元和堰武」(げんなえんぶ)という歴史の言葉があります。
元和元年、大坂夏の陣が終わり、矛を収め平和になったという意味です。
戦国時代というと徳川幕府が開かれるまでと思われがちですが、
3代将軍家光の頃までは、まだ世も不安定であり世も乱れ
天草の乱や死後ですが由比正雪の乱などがありました。
これは幕府が大名の取り潰しを強行し、その結果失業した浪人が
50万と大勢いたことも不安定の要因でした。
この不安定だった当時のこぼれ話をしたいと思います。
3代家光というと祖父である大の家康ファンというか、家康が夢に何度も出てくるのを
待ち構えていたくらいで、絵師に夢に出てきた時の様子を伝えて絵を描かせたりしました。
春日局化粧の間
春日局によると、この家康への熱愛は、3歳の頃、病気になり困ってた時、
家康から薬を貰い快癒したときに始まり以降家康を深く敬愛した。
今も残るが日光の輪王寺に家光の守り袋があります。
その内容はというと「二世権現、二世将軍、身も心も一つなり」
祖父である家康への思慕を大いに窺わせます。
その一方、父母である2代将軍・秀忠及びお江とは不仲でした。
これは、秀忠夫婦の家光の弟である忠長への偏愛が 原因であり
家光はあばた顔で、一方忠長は眉目秀麗、一を聞いて十を知るといった才知もあり
余計に忠長を引き立たせ、その偏愛する秀忠夫妻の様子を見て、
家臣たちはてっきり忠長が将軍の座に就くという思いになっていた。
家光が病で臥せっていた時など見舞いに来てた家来たちは、
弟の忠長急病という知らせを聞くと、家光をほったらかにし慌てて御見舞に
行こうとし、家光の薬袋がその辺に散乱してたと云います。
それを見た春日局が家康に直訴し、家康が長幼の序を乱してはいけないと
家光の3代後継が決定したのでした。
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