戦国こぼれ話 1-8



幕末、薩長対会桑とされましたが、この中の桑名と会津の藩主は兄弟であり一体でした、


長男は尾張徳川家の藩主で、もう一人は一ツ橋家。いずれも養子でした。


当時は、血筋が大きくものを言い、出来れば権現(家康)に近いほどよく、


その家の子の養子の行き先は幾らでもありました。


彼ら4兄弟の実家、高須家は、そういう良家であったのです。


その結果、兄弟が別れて戦ったのです








幕末には互いに[肉をくらわん」とまで憎悪したが、会津と薩摩というのは非常に酷似してる面が多い。


どちらも教育水準が高く武道に熱心であった事、そして、教育体制が似てるのです。


この際の教育水準とは偏差値な様なものではなく、薩摩の場合は、戦での総大将とは


どうあるべきかという教育についてです。


これが伝統的にあったようで、それを作り上げたのが郷中教育であった。


 


大将というのは、有能な部下を見つけ全権を預け、やりやすいのようにやらせ


結果が悪い時は大将が前面に出て責任を取り、そうでない場合は部下が


褒章を受ける。


日清日露の両戦争でもそうした形跡があります。


幕末の薩摩人というのは、他に例を見ない人種であったように思えます。


ただ、明治を過ぎて行くと段々その中身は変わって行ったようで。


次第に他と同化してしまいましたが、幕末の頃のは、異人種のような感じを受けます。


什の掟 じゅうのおきて 會津藩校 日新館


会津藩什の掟


 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです


  これに対して薩摩の郷中教育は、元になったのは下記のものでした。



長男は尾張徳川家の藩主で、もう一人は一ツ橋家。いずれも養子でした。


当時は、血筋が大きくものを言い、出来れば権現(家康)に近いほどよく、


その家の子の養子の行き先は幾らでもありました。


彼ら4兄弟の実家、高須家は、そういう良家であったのです。


その結果、兄弟が別れて戦ったのです








幕末には互いに[肉をくらわん」とまで憎悪したが、会津と薩摩というのは非常に酷似してる面が多い。


どちらも教育水準が高く武道に熱心であった事、そして、教育体制が似てるのです。


この際の教育水準とは偏差値な様なものではなく、薩摩の場合は、戦での総大将とは


どうあるべきかという教育についてです。


これが伝統的にあったようで、それを作り上げたのが郷中教育であった。


 


大将というのは、有能な部下を見つけ全権を預け、やりやすいのようにやらせ


結果が悪い時は大将が前面に出て責任を取り、そうでない場合は部下が


褒章を受ける。


日清日露の両戦争でもそうした形跡があります。


幕末の薩摩人というのは、他に例を見ない人種であったように思えます。


ただ、明治を過ぎて行くと段々その中身は変わって行ったようで。


次第に他と同化してしまいましたが、幕末の頃のは、異人種のような感じを受けます。


什の掟 じゅうのおきて 會津藩校 日新館


会津藩什の掟


 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです


  これに対して薩摩の郷中教育は、元になったのは下記のものでした。


この記事へコメントする

お電話でのお問い合わせ
049-296-8880

定休日 木曜日
電話受付 9:00~17:00
※上記以外の日時でも留守番電話にて応答致します。 FAX 049-272-7151(24H受付)
※専用のFAX送付フォームはこちら

パソコンからのお問い合わせ

メールでのお問い合わせは info@snowdrop-npo.com

※皆様のご要望以外のことをお勧めすることは趣旨に反しますので、決してございません。
※お墓や葬儀の手配などで有料になるものは、金額のお見積りをいたします。お見積りは無料です。

▲このページの先頭へ