戦国こぼれ話 1-5



  秀忠の正室・お江は家光を産みましたが、


御台所が嫡子を産んで将軍となったのは、


 この3代家光だけです。


 これはお江の方の偉大な功績でしょう。


 


4代将軍以降は、亰から御台として迎えた


公家の娘は体が弱かったせいか、結局、子誕生を見ませんでした。


家光は、亰から迎えた名門の公家の嫁に手もつけず同衾も無くお付きの老女が


不満に思い家光に何故同衾しないかと諫言したところ、


家光は非常に不快の意を表し、すぐさま城内に御殿を建て生涯別居した。


 家光が女性に目覚めたのは、後継を早く作らせようとする春日らの苦心であり


遅いもので、その結果、4代家綱の誕生は遅く、家光が40歳を過ぎた時でした。


 家光は49歳で亡くなって居ますので、幼少である家綱は老臣の保護により


将軍の座に座りました。


将軍の後見となったのが秀忠の不倫の結果生まれた保科正之でした。


いわゆる「遺弧の託」です。


信じられる人に自分の子を託したのです。


「三国志」の中に諸葛孔明が蜀の皇帝の遺児を託されたことが前例です。


同時に家光は正之に、禁色であった将軍と同じ萌黄色の装束を許し


同じ格の行列の供揃えも許した。


幼い将軍の誕生でも、世も安定し組織も完成しつつあったので問題ありません


4代家綱の頃、明暦の大火、別名・振袖の大火があり、江戸城の天守閣をはじめ


多くの武家屋敷と民家が焼失し10万人の死者を出し、城の天守閣の再建問題が起き


 再建の方向に決まりかけたが、正之は既に天下は泰平であり今天守を作らなくとも良い、


 今は、民の為に金を使うべきといい復興の資金に充てたのです。


余談ながら、明暦の大火後、江戸には仕事が多くあり、職を求めて


地方から多くの人が江戸に来て復興の手伝いをしたが


そうした人が食事をしやすいようにと、浅草寺の近くで茶飯が用意され


評判を呼びました。


外食産業の始まりでした。



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