土用の日 2




photo curtesy of Atsushi Toda 2004

(茗渓)お茶の水渓谷、渓とは、お茶の事。


絵では、先には上水道の水を通す樋が掛かり


更に先には、水道橋があります。


お茶の水の水は初期の頃は大変上質で、大奥で茶にも使われたと云いますが


段々と汚れて行ったといいます。


鰻屋の森山は、右岸上にあります


番付にも乗ってる有名な鰻屋がありました。




 鰻は鰻丼なら200文くらいでしたが、蒲焼となると500文くらいとなり


当時、腕の良い職人の日当が500文でしたから、


庶民には手が届かない食べ物でした。


幕末に有能な官僚であった小栗上野介。


勘定奉行などの役職を歴任し勝海舟との確執がありました。


小栗家は、年に3回くらいは家族で鰻を食べに行ってたようです。


 給与支払日に当たる御切米支給日には、どの家も御馳走を食べたようです。


支給された分のコメから自家で食べる分の米を除いた分の米を


札差から現金で受け取るのです。


米の値段は、江戸城内に貼りだされ、100俵辺り幾らという値段で出されるので、


それに基づいて米価は決まるのです。


相場として100俵で40両くらいが普通でした。


 


鰻は当時は天然物だけしか無いですから、当然季節は限られます。


 夫婦で出かけるというのは当時では大変珍しい事であり


愛妻家で仲が良かったのでしょうね。


 


小栗家の 鰻屋での会計は金2朱でした。


 金2朱は、金1両の8分の1ですから、今の金で言うと


1,2万円でしょう。


値段からみると他の物も食べているでしょう。


 ファイル:Tokyo Chikuyotei Unadon01s2100.jpg


ただ、当時の鰻丼に乗ってる鰻の大きさと数は現代と比較にならない。


この当時の鰻は、皿ごとに売られたらしい。


大きな鰻は1皿、中くらいのは2,3串、


小さいものだと4,5串で売られた。


うな丼は、その半値で提供されたが、驚くのは


そのボリュームです。


 


鰻丼は、ご飯・蒲焼・ご飯・蒲焼の2段重ねであり、


1切れが10センチくらいの大きさで


12切れ入っていたという。


これを食べたら間違いなくお腹一杯であったでしょう


今のようにお上品に?お義理で仕方なく


ご飯の上にちょこっと乗ってるものではなかった。



 


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