戦国こぼれ話 1-3



赤子に 乳を外で貰うと云う事は,長屋ではごく普通の事であり、



子供は地域の授かりものとして見られ地域で育てられた。


従って、乳幼児の死亡率も将軍家や大名家に比べると格段に低いものでした。


それでも5人産んで2人は亡くなってた。


乳母を頼むというのは、明治になっても同じであり、最後の将軍・慶喜も


多くの子が居たが、産まれてから7歳の頃まで外で育ったほうがよいという考えから、


外の色々な職業の家に子を預け育てさせた。


中には商人などの家もあったから、姫同士のお遊びとして物を売る事もあり、


「そのお豆下さいな」といった大将軍の子らしからぬ言葉もあり、


慶喜に向かって「ちゃん」と呼びかけた子もいて、周りを慌てさせた。


高松宮妃が預けられたのは質屋であったそうです。


宮妃が預けられた時の話ですが、或る時、慶喜が訪れて


徹夜で囲碁を打っていたそうで、それを見て、宮妃は、なんて


碁は嫌なものだろうと思ったそうです。


 


これら庶民の出である乳母の晴れ姿というのは、正月に慶喜の屋敷に挨拶に行く時で


子供を抱えた乳母は、玄関から上がると,ずらっと平伏して並ぶその中を


かっての大身旗本を見下ろすようにして進んだ。


その時の気持ちは大変晴れがましいものであったという。


 



春日が局という官位を頂戴した時に戻りますが


官位といえば、8代吉宗の頃になるが象も貰ってます。


ベトナムから連れてこられた象を天皇が見たいという事で参内が決まり


官位が与えられ天皇以下上覧出来たのです。


 その官位は『広南従四位白象』


何と従4位です。


この官位は、「四品」(しほん)と呼ばれ、大大名の貰う官位でした。


一般の大名というと従5位下からのスタートですから如何に優遇されてるか判ります。


遠路遥々東海道を歩いて江戸まで連れてこられましたが、


絶えず見物の鈴なりの人たちがいて、


江戸でも見世物で大人気でしたが、最後は飽きられて見向きもされなかった。


 


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